光と風と、学校建造物のありようを考える

 母校である足立区立東島根中学校の校舎が建てられたのは1959(昭和34)年のことだ。その前年に竣工した都立青山高等学校の旧校舎などにも共通する意匠が見られ、当時は「モデルスクール」と言われていたという。
 母校の校舎は、このところ取り上げている「復興小学校」に比べれば、何ということのないものかも知れない。建築学会が「文化財」と認めてくれることもないだろう。それでも、私はこの校舎が好きだった。区内には、この「モデルスクール」と同様の校舎が建てられることはまったくなかった。どの学校もが同じように見える中にあって、母校の校舎は特別な存在だったのだ。
 意匠上の特徴のひとつに、廊下側の外壁のほとんどが鉄のサッシだけで構成されている点があげられる。腰から下は縦長の網入りガラスが連続していて、外からの光が差し込んで明るかった。母校の校舎は東西一直線に建てられていて風通しがよく、廊下は北側に配置されていたが、ガラス面の多い外観はたいへん美しかった。
 いつの間にか「過去形」で語っているが、それにはわけがある。1994(平成6)年に外壁を改修した際、サッシはアルミ製に替えられ、腰から下はアルミの板になってしまったのだ。アルミのサッシというものは、色も形もなかなか自由がきかないもののようで、竣工当時の意匠は維持できなかったのだと見ている。
 窓の大きさは、この校舎の特徴だった。南側、つまり教室側も小・大・小と3段式の窓で構成されていて、一番上の窓は天井すれすれのところから始まり、一番下は床から80センチくらいのところまであった。一番上の窓は換気に便利だった。一番下の窓はくもりガラスだったが、それでも教室の明るさを担保していた。
 ところが、校舎が1970(昭和45)年と1977(昭和52)年に東側に延長するように増築された際、この意匠が守られることはなかった。増築部には、天井から下に数センチ分の外壁が設けられたのである。在学中から疑問に思っていたことなのだが、今になって考えれば、この校舎の意匠が当時の区の標準とは異なっており、対応できなかったという辺りがその理由なのだろう。
 この窓も、1994(平成6)年の改修の際に2段式のアルミサッシに取り替えられた。それも初期に建造された部分だけなので、現在の南側は窓が不揃いであまり美しくない。この改修工事では窓の一番上に張り出していた庇もすべて取り払ってしまったが、教室に差し込む光を和らげるはたらきを持っていた庇が不要となった理由はわからないし、外観もまるでアクセントのないものになってしまった。
 光と風。ここに来て「復興小学校」のことを調べるうちに、当時の校舎を設計した人たちが採光と通風にどれほど心を配ったかがわかってきた。母校の校舎は1959(昭和34)年のものだが、そこにも同様の考えが引き継がれていたのではと思えてくる。時が経てば、増築や改修の必要も生ずる。それはごくごく当たり前のことだ。しかし、校舎を建てたときの「思想」が引き継がれないというのは悲しいことだ。
 明石小学校のウェブサイトには「改築準備協議会」の記録や資料がアップされている。昨年(2009年)の8月7日に開催された第4回協議会では、新しい校舎の配置をロ型とするかL型とするかを議論したようなのだが、その際に配布された資料には「最近の学校建築の傾向として、下記の理由により口型校舎を選択するケースが増えている」として次のようにある。

(前略)昨今は建築技術が向上し、同程度のコストでより現在の用途に即した多様な建物形態が可能になったこと、空調技術・照明技術の向上により、自然採光・通風に頼らずに快適な室内環境が得られるようになってきたことから、口型校舎も増えつつある。

 住まいを建てるとき、買うとき、借りるとき、誰もが光と風のことを考える。どうしたら「空調技術・照明技術の向上により、自然採光・通風に頼らずに快適な室内環境が得られる」ということばに心からうなずけるのか。自分の家のことならば、財布の中身と相談して我慢もしよう。オフィスビルの話ならば、勤務時間内のことだけと我慢もしよう。しかし、話は小学校のことなのだ。
 あふれる光と吹き抜ける風がそこにあるというのに、それを実現して子どもたちを守り育み80年以上の時を刻んできた校舎がそこにあるというのに、これをわざわざ壊すという。そして、新しく建てる校舎では、技術に頼って「快適な室内環境」を得るのだという。これを愚行と呼ばず何と呼べばよいのか。