罰としての掃除当番に断固反対する

 午後、所属寺の清掃奉仕に出かける。以前は年末の「大掃除」だったが、一昨年から報恩講の「お待ち受け」として実施することになったもの。
 お待ち受けの文字通りの意味は「準備」なのかも知れないが、埃を落として掃き、仏具を磨いて荘厳するうちに、私たちの報恩講がすでに始まっていることを感じる。そして、報恩講の「ほ」の字も知らなかった自分が、これを軸にして1年の動きを組み立てるようになったことの不思議を思う。
 思いが先行して段取りが後回しになってしまうのはいつものことだし、それはそれで構わないとも思うのだが、はたき、ダスター、薄手のゴム手袋、それにお荘厳を傷つけないための当てものなどは用意しておいた方がよい。これは僕らが準備すべきものなのだろう。いつも思うことなのだが、すぐに忘れてしまうので、ここに書き留めておく。