検品せよ

 どうにもセンター試験がたいへんなことになっていたらしい。
 宮城県気仙沼市の会場では、英語のリスニング試験用の機材が足りず試験の開始が2時間遅れたという。202台が必要なところ39台しか届いておらず、そのことに試験開始の1時間前に気づいたという話なのだが、これはもはや「足りない」というレベルではない。ああいうものというのは検品しておかないものなのだろうか。
 その昔、ある学校に勤めていたとき、納品された校章入りの靴下を小会議室で一足ずつ丹念にあらためている事務職の人がいたことを思い出す。一方、次に勤めた学校では、新入生にわざわざ書類を渡して申し込ませた上履きが、入学式の朝に手渡そうとしたら足りなかったという信じられぬ光景も目の当たりにした。仕事は人、仕事は風土、そういうことを感じたわけだが、で、重ねて思うのだが、リスニング試験用の機材の数を事前に数えてはいけないというような決まりごとがあるのだろうか。
 これ以外にも、今度のセンター試験では、全国の相当数の会場で説明に時間がかかり試験時間が短くなってしまったとか、問題冊子を配り間違えたとか配り忘れたとか、さまざまのトラブルがあったようだ。時間が足りなかったとか、うっかり忘れたとか、さまざまのことが報道されているけれど、統括者には、およそ事務仕事に向かない人たちを事務仕事に当たらせているという意識がまったく欠落しているのでないか。
 思えば、以前に勤めたある学校では、入学試験時のすべての指示は放送を通じてなされることになっていた。監督者はひとことも発する必要がないのである。もちろんあいさつくらいはしたけれど、今思えば、これは監督者の「個性」を奪うという点においてまったく効果的な方法だった。
 問題冊子を配るのにはどれほどの時間がかかるか、記名させるのには何分取ればよいかといったことを検討したうえでスケジュールを組み、経験を積み重ねてひとつの方法を編み出したのである。その学校では、放送原稿を事前の会議で一文字ももらさずに読み上げて確認するという「儀式」もあった。まさに仕事は人、仕事は風土と思ったものだ。
 英語のリスニング試験となると聴き取り環境の均一化ということが問題とされ、ひとりひとりに機材を配るという奇妙な方法が採られている。しかし、リスニング試験以前の問題として受験環境全般に目を向けたとき、その均一化などといったものはまるで実現できていないのではないだろうか。
 だが、受験上の注意もリスニング用の機材に録音して聞かせようとか、問題冊子は受験者ひとりひとりに貸与したプリンタから出力されるようにしようとか、そういう愚かな道に進むことを望んでいるのではない。ヒューマン・エラーを前提とした仕事のありようを考えるべきだと思うのだ。
 で、この文脈でとらえると、英語のリスニング試験のために専用の機材をひとりひとりに渡すという方法は、やはりひどく滑稽なものに見えてくる。まあ、聴き取るという「活動」は絶好の条件下でのみ行われるものではなく、聴き取りづらければ聴き取りづらいなりに聴く以外に聴き取りの方法はないと思うけれど、それはまた別の話か。