おしいただかない

 近所の方のお通夜から帰ってきた母が「こんなものをいただいたよ」と小さな冊子を見せてくれた。表紙には「弔問の心得」とある。裏表紙には葬儀社の名が刷られており、巻末の数ページはその業者の広告で占められている。
 掲載されている「心得」を書いたのが誰なのかはわからないのだが、「一般的な」焼香の作法としてこんなことが書かれていた。

額のあたりまでおしいただきますが、浄土真宗ではおしいただきません。

 たしかに私たちはお香をおしいただくことはしないけれど、香をおしいただくことを「一般的」であるとする根拠というのはどこにあるのだろう。その問いには答えてもらえないのだが、冊子を読み進めてみると以下のような記述があった。

香炉に静かにくべます。宗派で回数が異なりますが、二回目はおしいただきません。

 二回目はおしいただかないとのこと、初めて聞いたという人も多いのではないだろうか。押しいただきたい人たちは何度だっておしいただきたいのだろうし(私は一度だっておしいただかないけれど)。気になっていろいろ調べてみると、二回目は押しいただかないというのはどうやら曹洞宗の作法らしい。
 結局のところ、焼香の方法にもあれこれあるということしかわからないわけだが、はっきりしてくるのは、どうして香をおしいただくのかについてはきちんとした説明はなされていないということだ。
 香をおしいただき念をこめて亡くなった方に手向けるなどというのは、さかさまになった人間の姿そのものであろう。おしいただかずに二回という作法を守っている私たちだって、その作法が守れているからといってさかさまになっていないとは言い切れない。そこを思うことも大事かと思う。
 何度でも聴き、何度でもガツンとやられながら、ジタバタと生きていく。もの知らずと陰口をきかれても「もの忌み嫌わず」だと胸を張り、堂々と生きていく。それは、やっかいだが楽しい生き方である。