community-ism

 夕方からの約束がキャンセルになり、なんとなくぽっかり空いた気分の一日。今日はずっと右とか左とかのことを考えていた。幼い頃から、左から回した手と右から回した手が実はきちんと結ぶことがあるのではないかとぼんやり考えていたのだが、そのことをある種の実感とともに確かめる結果となった。
 聞く耳を持つというか、胸を開くというか、そういうことが大切なのだろうな。そこに求められるのは、ともに生きる世界、もしくは共通の地平を認識するということであり、他者への敬意を忘れぬということであり、「弱者」への優しいまなざしと自分もまたそうなり得ることへの不安とを保持し続けるということだ。
 共同体の存在を幻想として切って捨て、自由の名のものとに放縦をも許すというありようが一方にあり、それを「常識」あるいは「正義」とする人々もいるようだけれど、これを放置できないという一点にこそ、私の「こだわり」はあったのかと思う。その意味で、communism でも communitarianism でもない、community-ism という造語にこころ惹かれた。英語として明らかに壊れているのは、このことばが、たとえば英語を使って暮らしている人々には想像のおよばぬ感覚を内包しているからなのかもしれない。