「すがた」をとる「願い」

 吉祥寺で答案返却を済ませ所属寺へ。月に一度の聞法会である。昨年の「真夏の法話会」でいただいた春秋賛師のご法話を住職が書き起こしてくださったものを読み合わせ、あわせて佐野明弘師の講義録の一部を読んだ。

 …必ず全てのものに「出処」、「願い」があってものが生まれるんですね。その願いが本物ならば、必ずその「願い」が「すがた」をとります。そういう「願い」が「すがた」をとるものを「行」と言うんですね。修行と言ってもいろんな修行がありますけれども、お掃除ひとつでも修行と言うでしょ。だけど掃除ぐらいだれでもしますわね。ところがそこにそのお掃除を通して仏道を成就したいという願いがあると、仏道の行になっているわけです。
 ようするに、「願い」というものが「すがた」をとる。これはどんなものでもそうです。例えば字を書くのに、下手だと嫌になるわけです。特にお坊さんは法名を書かんならんでしょ。法名を書いて自分で前に置いて、お葬儀でその字を見ていると、だんだん嫌になってくる時があるわけですよ。「下手くそな字だなあ〜」って。そうするともう少しいい字が書きたいなあって。その「願い」をもしおこしたとしますね。その願いが本物だったら一日に五分でも練習するという「すがた」を必ずとるでしょ。その「願い」が本物でなかったら、そんな「すがた」はとらないわけです。だから「願い」が本物であるということは必ず「すがた」をとるんですね。また、願いがない「行」なんていうのはでたらめなんですね。また「行」が本物なら、必ずそこには「願い」があるということです。


佐野明弘『真宗大谷派大聖寺教区推進員養成講座講義録―迷いに帰る―』2010、真宗大谷派大聖寺教区教化委員会門徒研修小委員会

 震えるような思いがした。大きな「願い」に包まれている自覚のうちに、それが「すがた」をとってあるのならば何度でも口に称えよう。
 旅人には道標が必要だ。だから私は寺に通う。