りばそんアーカイブズ#6

 昨日の私のスピーチだが、あらためて読んでみると破綻に気付く。長さを5分にするためにことばを足した部分が流れを邪魔しているのだ。
 ブログは匿名とのルールを維持するために固有名詞を伏せる。少しおかしな感じもするが【X】・【Y】・【Z】にはそれなりの意味もある。

 ご紹介いただきました【Z】でございます。


 【所属寺】の門徒といたしまして、日頃からお導きをいただいております【X】ご住職が【Y】先生との共著を上梓され、また本日このように盛大な記念の祝賀会が開催されますことは、たいへんうれしくよろこばしいことと存じております。


 【X】住職は、この数年、日本全国を飛び回り駆け回り、法話、対談、鼎談、シンポジウムに会議と、それこそ休む暇のない毎日をお過ごしですけれども、今回のこのご本は、ご住職のそのような「旅する生き方」がひとつの形を持った、あるいはそういう生き方の延長線上に生まれたものと感じております。


 旅をするということは出会うということであります。


 このご本も、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を讃迎する講演会で【Y】先生と出会ったということが縁となって生まれたものとうかがっております。


 出会うということは語るということであり、同時に聞くということであります。聞くということは、気付かされ、うなずかされるということであります。


 住職はさまざまの土地でさまざまの人と出会ったということを私どもに語り伝えてくださいますが、例えば、手づくりの報恩講を運営している門徒さんがお寺にかける願いや思いを語ったことばも、病床にあっていのちの事実に気付かされたという人のことばも、大切な人を亡くして悲しみに暮れていた人が生きる勇気を取り戻したときに語ったということばも、そして、社会学者が学問上の苦悶の末に出会った親鸞を語ることばも、すべては等質のものとして受け止めていらっしゃるのではないかと思います。


 そこには、「教えは人にある」「思いもよらぬ人のことばに教えがある」「教えを握るな」「親鸞を握るな」という、住職の日頃繰り返されることばと通じるものがあるように感じております。


 私も、昨年、蓮光寺の報恩講で【Y】先生が感話をくださるのをうかがいまして、その後のお礼のことばの中で「お聖教のことばではない学究のことばで語られる他力の教えに、めまいにも似た爽やかな感動を覚えた」と申し上げましたが、ある意味、今日的な知性を象徴される方が語られる聖人のことばには、現代の闇を破る新たな視座と勇気とをいただいたように感じました。


 近代以降の常識に基づけば、学問とは、深く、また狭いものであります。しかし、研究者を自称する人々も、その狭隘な専門領域から一歩踏み出したときに、新たな地平が開けてまいります。それは、研究者に限らず、お勤めをされている方も、ご商売をなさっている方も、ご自分の縄張りと自認しておられるところから一歩踏み出したときに初めて見える何かがあるのではないでしょうか。


 今、【X】住職をはじめとするご僧侶のみなさまが、お寺を護ると同時に開き、宗教者として現代の知性に深く関わろうと一歩も二歩も踏み出されている姿に触れますときに、親鸞聖人のことばがまさに「今を生きる」ものとして位置づけられる胎動のようなものを感じているところでございます。


 「教えは人にある」「思いもよらぬ人のことばに教えがある」「教えを握るな」「親鸞を握るな」といったことばに象徴されるご住職の生き方が、それはいわば「人生を旅する」という生き方でありましょうけれど、それが今、このように一冊の本となって形となり、多くのみなさまに読まれていることをたいへんうれしく思いますし、この本を通じて新たな出会いがまた生まれることを予感するとき、私どものよろこびもいっそう大きなものとなることでございます。


 ご住職、ご活躍はうれしく、私どものよろこびとするところではありますが、どうかくれぐれもお身体を大切になさってください。私どもも、真宗の門徒として、ご住職が身をもって示してくださっている生き方に学び、【所属寺】を真に教えの息づく場として未来の人々に引き継いでいくために、ますます聞法精進してまいるつもりでございます。そのことをお約束いたしましてお祝いのことばとさせていただきます。


 本日はおめでとうございます。