津山へ

 早朝6時16分の新幹線で西へ。岡山で乗り換えて津山に向かう。中国・四国地方を基盤とする学会に所属しているのだが、今日はその研究例会である。
 作州津山には、京都で生まれた母のルーツがあると聞かされていた。なんでも、この地にある出雲大社の分院(分社と呼ぶのかと思ったが、分院とも言うそうである)が、母の曽祖母の生家であるという。浅からぬ縁を感じつつもなかなか出向く機会もなかった美作の国だが、好機を得て初めて訪れることになった。
 津山駅に着いたのが11時ごろ。受付開始までは1時間半ほどの余裕がある。早めのお昼でも食べようかなどと思いながら駅舎を出ると、不意に呼び止められた。会の先輩方も同じ列車に乗っておられたようだ。お一人はご夫人同伴で、自分は理事会に出るがご夫人と観光してはと勧められる。
 初対面の女性と歩くほどのずうずうしさがあればよかったのだが、結局はうやむやのうちに一人で歩き始めることにした。実は、道中インターネットで調べ物をするうちに、津山駅には昭和初期に建造された扇形の機関車庫と転車台が残っているとを知っていたのだ。鉄道遺構としても近代建築としても一見の価値はあるだろうと思い、これを見学することに決めていたのである。
 津山のまちには、いたるところに水路が引かれている。水に親しむまちのたたずまいをどこか懐かしく感じながら10分ほど歩くと、目指す建物はあった。割れたままのガラスやモルタルの剥げ落ちたさまを見るとまるで廃墟のようだが、実は今も現役で使われているという。フェンス越しに見ると、懐かしい国鉄色の機関車が何台も収められていた。
 あとは「ごんごバス」で会場となる津山洋学資料館に向かう。「ごんご」とは、当地のことばで「河童」の意味だそうだ。生活と水との密接な関わりをここにも感じながら、城東の町並み保存地区へ。津山は戦災に遭わなかったこともあって、古い建物がいくつも残っている。
 城下町の面影をそのままに残す「保存地区」も素晴らしいが、少し離れたところには明治以降の近代建築も数多く残されている。それこそ一筋違うだけで、町並みがまったく異なった表情を見せてくれるのだから、歩くには持って来いのまちである。
 ほぼ定刻に会場へ。懐かしい人たちと再会を果たす。講演に続き2本の研究発表を聞いたが、時間の過ぎるのが惜しいほどの充実ぶりだった。
 講演では、津山藩医の家系が江戸蘭学をリードしたことを知る。宇田川玄随・宇田川玄真・宇田川榕菴の三代は血縁によるものではないが、西洋文化を噛み砕くとともにオリジナリティを加えるという学問の姿勢が継承されていたことはなんとも興味深い。
 研究発表の1本目では、蘭学から英学へと展開する時期に津山出身者が大きく関わっていたことを知る。津山藩の蔵書として堀達之助の『英和対訳袖珍辞書』が存在したことの意味、そして1862(文久2)年に200部ほどが作られたというこの書の現物が、今日の津山で「発掘」されたことの意味を考えた。
 研究発表の2本目に聞いた矍鑠たる老教授のことばは実に重い。研究の方法論を示すとともに、ご自分を積極的に語り開こうととされる姿勢に感銘を受けた。岡山県の地誌を縦糸に「流れ」と「つながり」を横糸に紡がれていく英学史の論考、その完成に期待したい。
 夜の懇親会は「オランダ料理の夕べ」と銘打った贅沢な催しだった。乾杯は、宇田川玄真がその著書で紹介したという蜂蜜酒。大きな賞を受けられたというシェフが、洋学・蘭学・英学の研究家と共同して文献にあたり再現したという蘭学期のオランダ料理の数々。さらには、現代のオランダでも好んで食されるという伝統料理。洋学の学統のうちにこそ成立した宴を堪能した。
 今回、現地のみなさんには本当に温かく迎えていただいた。郷土を愛し、それを誇りとする生き方のなんと素晴らしいことか。会は違うが、来年の5月には東京での全国大会を控えていることを思うと、私たちにホストとしてできることは何かということを考えさせられた。