新聞を信用するのか

 昨年の秋以来、新聞は一次史料か二次史料かという議論にずいぶん振り回されていたのだが、年が明けて、新聞を一次史料として認めるコメントと、あわせて「『1.5』次史料」ということばをいただき、個人的には一定の結論を得たように感じている。そして、これまで進めてきたことにある程度の自信も持てるようになってきた。
 そもそも私は、新聞を信用するのかと問われれば一切信用しないと答える。けれど、戦後、公立の新制高等学校の入学者選抜に「試験」が導入され「英語」が課されるようになる過程を、46の都道府県別に精密に調査しようと思ったら、狭義の一次史料を掘り起こすことなど、もはや絶望に近い。となると、新聞に史料としての価値を認めざるを得ないのも事実なのである。
 そういった事情を一方に置いておいて、実は私は、戦後のある時期、具体的には1950年前後にあっては、新聞というものが少しはまともに仕事をしていたのではないかと感じているのだ。それは、ちょうどGHQが大政翼賛会的な記者クラブから取材組織としての権力を奪おうとしていた時期なのである。その後、大きな揺り戻しがあって、現在の記者クラブは戦前の御用クラブ以上に翼賛的な勢力となってしまっているのだけれど。
 で、私は現在の新聞などというものは信用しない。むしろきちんと監視して、その誤りを厳しく指摘していかねばならないと思うのだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/22780510.html
 このブログには、2010年12月4日付『毎日新聞』夕刊の記事に対する明確な反論が示されている。新聞なんかを頼りにしてよいのかといった批判は、こういった新聞記事を鵜呑みにしている人たちにこそ向けられるべきである。