閑話休題

 昨日は朝一番で国会図書館へ。とにかく時間がないので、バタバタと調べ物。8点を閲覧し、うち5件の複写サービスを受けた。14時からは所属寺で本堂の音響設備等について業者の方と打ち合わせ。引き続き、15時より「門徒倶楽部」の例会。あれこれ相談することが多く、なかなか輪読に入れなかったが、始まってしまえば話も弾み、終わったときには予定の時刻を過ぎていた。
 で、今日は14時より浅草ビューホテルでの「お待ち受け大会」に参加。思いも寄らぬことというのは、起きてからそう気付くものだ。大会の開催にこぎつけるまでの多くの人々の労苦を思うと頭が下がる。
 私はと言えば、指名されていた「感話」の内容が朝まで決まらず、やっとの思いで原稿を打ち上げたのが10時頃だったろうか。文字にもしたことがあるし何度かお話しもさせていただいている内容ではあるのだが、そのたびに多くの方から感想をいただき、その中に新たな「気付き」をいただく。ことばは、私のもののようであってそうではなく、受け止めてくださった方々によって温められ深められていく。そのことをありがたく思う。
 役目を終えたと思ったら何やら弾けてしまい、ことばが過ぎたかと思えばまるで足りなかったり。「結局、何で私がここにいるのか伝わりませんでしたよ」と本人に言われたが、法座に教え子とともにあるということは、くすぐったいが幸せなことだ。そういう意味ではまったくデレデレでだらしがないわね。もともと「教え子」などという意識は薄く、そう言った方がわかりやすいという理由だけで使わせてもらっているのだけれど。