B l ü t h n e r

 上野高校の講堂は、私の在籍当時には椅子が取り払われ屋内体操場の補完施設としても使われていた。舞台と呼ぶべきか演台と呼ぶべきか、巨大なプラットホームの脇には1台の古ぼけたグランドピアノが置かれていた。誰でも自由に弾くことができるのだが、音の出ない鍵盤もあるし、出たとしても素人の耳にも半音は狂っていて、残念ながら使用に耐えるものではなかった。
 このピアノがドイツの名門「ブリュートナー」の製品で、第二東京市立中学校の創立当初からの備品であり、日本に2台という名器であると知ったのは、私の在学中に卒業生である兄のもとに届けられた同窓会報を読んだときだった。ものを載せたりボールをぶつけたり、ずいぶんひどいことをしてきてしまったわけで、なんとも申し訳ない思いがしたものだ。
 この夏の片付けもので、昨年の同窓会報『東叡』第40号を「発掘」したのだが、今日、それをパラパラとめくっていて驚いた。このピアノは修理されたあとお隣の東京藝術大学に寄贈され、現在は奏楽堂の資料室に展示されているのだという。
 旧東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)の奏楽堂は、日本最古のコンサートホールとして知られているが、取り壊される寸前に台東区が引き受けを表明し、現在は上野公園内に移築され、同区によって管理されている。ピアノのことを思えば、ドイツから渡ってきて東京市の備品となったあとは都のものとなり、国の大学に寄贈されてからは、この大学が法人化される以前に台東区に移管されたことになる。犬の子をやるのだって何かの思いがあろうというのに、あちらへこちらへご苦労なことだ。
 ただ、第二東京市立中学校は上野公園内に開設されたこともあり、同じ上野の山にある東京音楽学校とは浅からぬ縁があった。初期の音楽科目の担当者は音楽学校の人たちだったのである。
 例えば、校歌の作曲者でもある田村虎蔵。言文一致唱歌の主唱者として知られるが、東京音楽学校を卒業後、東京音楽学校と高等師範学校の助教授を兼ねた人である。のちに命を受けて海外の音楽教育事情を視察し、帰朝後は東京市の音楽担当視学も務めている。市立二中がブリュートナーを備品とするには、田村の力添えがあったとも聞く。
 あるいは、柏木俊夫。音楽理論家であり作曲家でもあったが、東京音楽学校の教授を務めていた。当時は独立した夜学であった上野中学校(のちの上野高等学校定時制過程)の校歌を作曲している。代表作であるピアノ組曲「芭蕉の奥の細道による気紛れなパラフレーズ」は、市立二中のブリュートナーで作ったとも言われている。
 このようなことを考えてみると、あのピアノも終の棲家としてはもっともふさわしい場所を得たのかも知れないと思えてくる。今度、上野に出かけたら、きっとピカピカに磨き上げられ見違えるようになった(はずの)ブリュートナーを見てこようと思う。