記念写真

 会の最後の『月報』が間もなく発行される。今日は担当のU先生に確定前のものを見せてもらい、事務局の出稿分を確認させてもらった。ずっと続いてきた『月報』が最後となるのは、この刊行物が隔月刊となるためだ。次の号からは『会報』と名前を変えて引き続き発行される。これまでの「月例研究会」が「研究例会」となり、隔月の開催となるのにともなってのことだ。
 最後の『月報』は、全12ページの3分の2を割いて5月に開催された秋田での全国大会を特集している。6ページには第1日の午後に撮影した集合写真が載っているのだが、これを見て、日頃からお寺で聞かされていることにあらためて気付かされた。
 集合写真を見るとき、ほとんどすべての人はまず自分を探す。それは、私たちがどれほど自分を中心に暮らしているかの証左である。
 この集合写真を見て、私はひどく慌てた。私の姿がないのである。探しに探し、記憶をたどり、そして「そうだ」と気が付いた。この写真は2人で交代で撮ったうち、私が撮ったものだったのだ。
 よく見れば、記念の集合写真には珍しく、どの人も笑顔で写っている。歯を見せて笑っている人もいる。そうそう。緊張をほぐそうとバカなことを言い、笑顔のこぼれた瞬間にシャッターを押したのだ。
 写真に収まってはいないけれど、私はたしかにその場にいて写真撮影に加わっている。そう思ったら、ようやくホッとすることができた。私はやはり自分勝手で、写ってもいない自分、カメラを構えている自分の姿を見つけようとしているのかも知れない。けれど、写っている人たちの笑顔を見ていたら、素直にこの写真を喜べるような気もしたのである。