アリとキリギリス、ハブとマングース

 肘枕などで横になっていると腕が固まってしまって動かなくなってしまうことがあるが、このところこころがそんな具合になっていて、解決するために考えるべきことには手を尽くしながらも、もうひとつ何かが必要ではないかとモヤモヤしていた。明日の出講先は学園祭の準備のため授業がなく、少し時間に余裕もあるので、西東京のサークルの帰りに神保町に寄り道してみた。
 裏道に新しく見つけた古書店は、民家を改装もせずにそのまま転用したのであろう。畳の上に敷物がしてあって、靴のまま上がれとの貼り紙がある。その軒先に古い小さな雑誌が積まれているのに気がついた。
 思潮社刊『現代詩手帖』。自分が生まれたその日の朝におそらく書店の棚に置かれていたであろう1冊は、あるいは父の手許にもあったかも知れない。それを100円で手に入れる。吉野弘、寺山修司、小野十三郎、大岡信、長田弘といった名前が目次に並んでいる。ソ連紀行の詩や谷川俊太郎に関する論説が時代を映している。
 編集後記にこうあった。

「現代詩」がなくなり「詩学」が遅れがちなので、「現代詩手帖」は売れるでしょう、ともいわれ、責任が重大になったね、ともいわれる。

 創刊7年目に入ろうという『現代詩手帖』がいきいきと道を拓いているとき、一方では勢いを失った雑誌が休刊や廃刊に追い込まれていたことを知る。そういえば、先日K君からもらったメールは、学燈社の『学燈』と『國文學』が休刊することを知らせてくれるものだった。研究社の『英語青年』はすでに休刊してしまったし、大修館書店の『言語』も今年限り。
 いつの時代にもあったことかも知れないが、ここに来て雑誌の力の絶対的に衰えてきていることを思う。歌を歌ったりバイオリンを弾いたりして暮らすような余裕は、この世の中にはもうないということなのだろうか。