何をもって貧困とするか

 所属している会の部内広報紙の中身のことだからここに書いてもしかたないのだが、あんまりな文章に出会ったもので、今の思いをここに刻んでおきたい。
 まず、英語の教員志望の大学3年生に「知識一辺倒ではなく探求型の学習が重視されている現在、英語という教科でどのように指導するか」という問いをかけたところ、5人のうち3人が「英文法をしっかり教える」と答え、残りの2人が「全文訳をする」と答えたとのこと。その事実に対し「学生に責任があるとは思えません。ただ彼らが、教えられてきたことを振り返って発表したら、そうなったに過ぎないのではないでしょうか」とは、大学の担当教員としてどういうつもりなのか。大学に入って2年半も経っているというのに、それまでの間、この学生たちは何に触れ、何を教えられ、何を考える機会を与えられてきたのだろうかと思うと気の毒でならない。
 今日の文章の主が「今は英文法という教科書はないんだよ」とおっしゃったところ、学生は意外な顔をしたとのことだが、そもそも今の学生たちには「英文法」などという教科書で勉強した経験はないはず。どういうことかと気になるところでもある。全文訳をさせたいという学生に「今の流れは英語で進める英語の授業だよ」とおっしゃったところ、学生たちは不服そうだったとのことも書かれている。彼らが英語で運営される授業に慣れていないことはわかるが、訳との関係までは読み切れないところだろうか。
 私の疑問は、学生たちが「探求型」の学習の中身として「英文法」や「全文訳」を求めたということに集中する。あれこれ考えたが、「英文法」や「全文訳」にこそ彼らにとっての未知なるものや彼らの探求心をくすぐるものが凝縮されているのだと考えるのが自然なのではと思えてきた。つまりは、きちんと文法を学んだ記憶がないとか、全文訳はプリントとしてもらうばかりで自分でやった記憶がないとか、そういう授業が行われている証なのだと思えてならなくなってきたのである。
 先の「教えられてきたことを振り返って発表したら、そうなったに過ぎない」という文言は、その文脈で読むべきなのかとも思ったのだが、直後に恩師の「教えられたようには教えるな」ということばが続くのだから、そうとはとても考えられない。つまりは、大学での教育の質を問うことなく、中学校・高等学校での英語の授業の現実を見ることなく、中学校や高等学校の英語の時間には文法や訳読ばかりやっているというステロタイプ的な議論に落とし込んだということだろう。ことばが過ぎるかも知れないが、実際、この手の議論には辟易しているのである。
 恩師のことばはいいように引かれて気の毒だ。この議論の延長で読むならば「教えられたようには教えるな」というのは、文法と訳読を脱却し英語は英語で教えよということに他ならないはずだが、今日の文章は、このように言われ始めてもう何年も経っているのにそれが実現できていないという現実をとらえ、「企業ならとっくに潰れているのではないでしょうか」と続く。さらに「アメリカのサブ・プライムローンの破綻に端を発した金融工学の崩壊は、ほとんど同時に日本にも100年に一度という経済不況をもたらしています。多くの会社が倒産に追い込まれ、新しい生活困窮者層が大量に生じています。学校の先生方、特に公立学校の先生方は、自分の職場がなくなる等とは考えられないのではないでしょうか。」とも。英語を英語で教えないから馘首されるというのなら、この国のでたらめぶりに照らしてわからないでもないが、英語を英語で教えずにいると学校が潰れるという理屈は、残念ながら私には理解できない。
 今日の文章はなおも続き、オバマ大統領の言う「思い切った改革」に迫力を感じたと言う一方で、大谷泰照氏の調査を引いて、日本の国家予算に占める教育費の割合は「右肩下がり」であることを記す。先に述べられたような経済不況の中でも教育予算だけは確保しろというポリティカルな主張かと思うと、一転、日本は天然資源に乏しいのだから人間を人材として育てて国を豊かにすべきだという議論になり、私たちも「教育を新しい時代に備えて準備しなければならない」、「一緒に頑張りませんか」と締めくくられる。
 本当にこれでよいのだろうか。そもそもが論旨の不明確な文章ではあるのだけれど、要するに貧乏な時代に耐えて一緒にがんばろうということであるならば、まことに相済まないがご遠慮申し上げる。多くの英語の先生方のストイックさには尊敬すらするのだけれども、本当に英語の使える人材が必要ならばこれだけの金を用意しろと主張するのが筋というものではないのか。
 恩師は「教えられたようには教えるな」とおっしゃる一方で、英語の授業に必要な設備を揃えるならば体育館くらいの大きさのものが当然必要になるとも主張されていた。1983年の『これからの英語教師』に見られる language workshop がそれである。もともとは language gymnasium という名も思いつかれたのだともおっしゃっていた。
 語学に金がかからないと思ったら大間違いである。優れた語学の教師を送り出すため、育てるために金がかかるのはごくごく当然のことだ。もちろん、生徒や学生に語学への興味を持たせ、力を付けさせ、学ぶ意欲を維持させるためにも。そういうことを放っておいて、自分の授業が「改善」されればよいのだとか、こころざしを同じくする「仲間」がひとりでも増えればよいのだなどと思っているのだとしたら、こういう人々を通じて教えられる「ことば」とか、そのことばによって映し出される「世の中」というものに大きな疑問を抱かざるを得ない。