コメタ

 shirusuさんとおっしゃる方が昨年の3月17日付の日記*1にコメントをくださったのは、この3月3日のことだった。この日記では広島市内の幟町をどう読むかということについて書いたのだが、それに続くコメントの中で僕自身が次のように書いている。

また、これはほぼ確実な情報ですが、広島県内の自治体としての「○○町」はすべて「ちょう」と読むようです。行政的には何かのルールを持っているのかなとも思います。

 shirusuさんはこれに対して以下のようなコメントをくださり、その情報を補足してくださったわけだ。

もう、決着された話かもしれませんが、平成の大合併で呉市に編入した広島県豊田郡にあった“豊町”は“ゆたか・マチ”と呼ばれる“マチ”でした。
今は呉市豊町となりましたので結果として現在、広島県の自治体で“町”は全部“チョウ”と呼ぶところばかりになりました。

 shirusuさんも「はてなダイアリー」にブログをお持ちだ。拝見したところ、広島にお住まいの方のようである。広島への熱い思いが綴られていて、時間を忘れて読み込んでしまった。書き込みをいただいたことに、この場を借りてお礼申し上げる次第。


 で、僕はと言えば、その幟町にあるTという名のホテルにいる。理事会を無事に終え、月例研究会のあと駅前の中央局から「名簿原票」を発送し、懇親会を三次会まで楽しんで戻ってきた。ここは、宿泊料金は激安だが、美しく清潔で快適な宿である。
 窓の外に目をやると、夜の街の中に女学院の煉瓦色の建物が見える。女学院はコメタの学校だ。コメタは、僕が西武線の沿線にある女子校に勤めていたとき、中1から中3まで学級主任や教科担任として受け持った生徒だった。似顔絵を描くのが大好きな子だった。3年間ずっと図書委員を務め、その仕事としていつも一所懸命にベルマークを集めていた。高校に上がってしばらくした頃、お父さまが急にお浄土に還られ、お母さまが広島のご出身とのことで、この地へ移ることになり、編入試験を受けて転校して来たのだった。
 僕は、コメタたちが高等学校に上がるときにその女子校を離れてしまったこともあり、お父さまのご葬儀のとき以来、彼女には会っていない。コメタがくれた僕の似顔絵は、今も大切にしまってある。ベルマークを集めるために使っていた招き猫の形をしたプラスティックの貯金箱は、今も図書館のカウンターにあるのだろうか。もう30歳になろうという彼女と、あのときのことやら、あのあとのお互いのことやら、話してみたいような気がする。

*1:http://d.hatena.ne.jp/riverson/20080317