授業を見る目

 研究大会は二日目。パーマ―、ホーンビーらが書いた The Standard English Readers for Girls という高等女学校用教科書の指導書には、ホーンビー自身が書いた Oral Introduction が収録されているという。それを実演して再現し、Oral Introduction の源流を探ろうとする発表には、特に強く感じるものがあった。
 さて、昨日の続き。公開授業の内容に関することではないが、気付いたことの2つめである。授業のビデオ撮影には、この会独自のルールがあるのだが、そのルールをそろそろ見直してもよいのではないだろうかと感じた。教授者のみを追いかけるのではなく、学習者をとらえて撮影する視線があってもよいと思うのだ。Interaction の大切さを言うのであれば、その実際を撮影して検討する必要があると思うのである。
 大学時代、英語教育学のゼミに教育心理学研究室の学生が訪ねてきたときのことを思い出す。彼らは、授業中の学習者の様子を観察するために教室の前の方、つまり教授者の側にカメラを設置することはできないかと考え、ゼミを主宰していた恩師のところに相談に来たのだった。傍らでその話を聞いていて「なるほど、おもしろいことを考えるものだ」と思ったが、同時に「それは難しいだろうな」と直感的に結論づけていた。恩師の答えも同様であったと記憶している。
 私は、そのときには「無理だ」と思った。それは、ごく簡単に言えば、そういう時代だったということである。しかし、20年後の今、私は同じことは思わない。それこそ生まれた頃からずっと身近にビデオカメラがあり、誕生日、七五三、運動会、学芸会、入学式、卒業式と、ずっとレンズを向けられてきた子どもたちが、授業にカメラが入ったくらいで動じるとは思えない。むしろ、レンズを向けられることでよいパフォーマンスを実現することだってあるのではないだろうか。
 このようなことは、何年か前に大会の事務局に関わっていた頃にも言ったことがあるのだが、受け入れられることはおろか、受け止められることもなかった。この会のやり方があるとのことだった。しかし、絶対化しなければならないルールなどあるのだろうか。どなたか、こっそりでいいからもう1台の小さなカメラを持ち込み、指名を受けた生徒を追いかけ続けてはもらえないだろうか。そうやって撮影した実物があれば、その映像の意義や必要性が多くの人々に理解されるはずである。どなたか、こっそり、ね。